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2007年1月

2007年1月31日 (水)

ひもじい?

冬枯れの庭の実をば食べ尽くしなおもムクドリ日々通い来ぬ

毎年全て食べられるが、矢張り楽しみに肥料をやり育てる。今年もピラカンサの色づきを楽しんだ翌日、ムクドリに丸坊主にされがっかりした。
次は守り抜いた数少ない蜜柑を狙われ、袋を掛けたが無駄だった。
私の番人は失格、家族の口に入らなかった。メジロがおこぼれを食べて居たのがせめての慰め。
つぎは大事な思い出の南天、「良く下の枝まで見つけて」と思う程、一粒も残さず食べられて仕舞い、もう終わりと思ったら、今度は万両の大粒の新しい実を。そして盆栽の2つしかならない乙女林檎(これは毎年メジロにプレゼント)迄、毎日打ちのめされる思い。やっともう来ないと思ったのに、何を狙っているのか毎日通って来る。
始めは本当に腹が立ったが、「此の寒空に食べる物がなく彼らもひもじいのだ」と思ったら可哀想になった。
こんな事病気の助けに成らないが、此の辛さを少しムクドリに、紛らしてもらいました。

2007年1月30日 (火)

損傷にも色々

治す術は無けれど常に進み行き対処療法厳しくなりぬ

脊髄損傷と言うと普通は事故が多く、首の場合は首から下に麻痺が起き動けず、感覚がなくなる事が多い。然し私の場合は医療ミスで首から腰に、当時普通の病院には無い外国制の機械で一番強い電流を流し、一瞬始め右手右足がぶらんぶらん成った症例の無い損傷です。それで方々の病院を回り今に至まで時間がかかったのです。
たいていの先生は「良く成る」と、本当の事を告げられ無かったのですが、最後に国立病院の脊髄専門の日本の有名な先生を尋ね、検査して戴き、そこで本当の事を教えて下さいと頼みました。「小児麻痺は始めから動かないが、貴女の場合は、綺麗なバナナが有るでしょう? 上からぽんと叩くと何の傷も無いが皮をむくと傷がありそこから腐って行きます。神経は1日0,?ミリ快復するけれど、有るところ迄。あとは日に日に進行します。酷い様だけど諦めなさい」と言われ「はい」と答えたが、納得出来ませんでした。
でも先生のおっしゃる通り進み、何の治す方法の無い事がはっきり分かり、なにも言わなくなりました。麻痺も有るけれど手足は動き、車椅子に載っているからたいした事の無い様に見える。然し痛みが強く、足は脛から切り落として下さいと訴える程で、背中と胸の筋肉の萎縮が苦しく筋萎縮と似た状態です。当然腸も動かず尿も出ずで、薬ラシックス40を3錠飲んでも神経がやられているので、残尿の為に膀胱炎連続で抗生物質がもう使えず、今度はおそろしい事が待っていそうです。段々対処療法も強くなってきました。腰の損傷も酷いので恐ろしいペインクリニックも受けましたが効果無く、当然叉対処療法に悩むでしょう。辛い病気です。でも頑張ります。

2007年1月29日 (月)

黒髪(頭蓋骨牽引)

吾が命守る手術と思えども剃らるる黒髪(かみ)に涙こぼるる

有る大学病院で未だ検査の段階で脊髄損傷と決断される前に、変わられたばかりの整形外科の教授がいきなり、治療の一端として頭蓋骨牽引をやりますと言われました。何の事か分からず選択肢もなく言われる侭にした事は、床屋へ行かされ、あっと言う間に前からバリカンが入り自慢の黒髪がばさっと落ちた。鏡を見て思わず「何で」と涙がこぼれた。女にとって黒髪は大事なもの。そして坊主にされ、頭蓋骨の左右にドリルで穴を開ける段階で部分麻酔と言われ、卒倒しそうになった。結局は全身麻酔で気が付いたら其の穴に宇宙人見たいな機械が付いて、ベットが頭の方を高く、斜めに成り枕も無く、機械の先に4〜8Kの重が下げられ血が流れ、仰向けに寝たまま。食事もお腹の上に置かれ鏡を見て食べた。辛い毎日でした。そして婦長さんが「学生さん、看護婦さんに参考に見させてあげて下さい。」と言われそれから毎日大勢の人が見て行つた。私は恥ずかしいので。ハンカチで顔を覆い。でも何の効果も無く1ヶ月位。後で他の先生に伺ったら皆何の為にやったのでしょう。きつと大学病院の実験の所為でしょう。鬘も凄く高価な物。結局伸びる迄毎日鏡を見るたび泣いて居ました。それで今の病院に移りました。此処まで来るにはまだまだ信じられないこと一杯有りました。

2007年1月28日 (日)

夫々の人生

年を経て何時しか心の葛藤も無くなりそして愛憎も無し

昔の人間、何処の家庭でも夫婦間には色々有り心が傷つき、葛藤も有り悩んだものでした。長年妻の座、母の座、主婦の座、と責任感に追われ、子供を社会人に成長させ、嫁がせてやっと自分の生き方をと計画を立てるも想定外の病気が有り、それでもよくなって何かやりたい事をと思い頑張ったが、治す術の無い事が分かった。始めは家族を頼ったが、今は嫁がせた娘にも家庭が有り、主人にも自分の生きたい人生が有り、それらを奪う訳には行かない。出来るだけ自分で頑張り、親子の情で出来る事をやって呉れれば有り難く受ける事にしております。今は心も安らぎ出来るだけ来てくれる娘の旦那様も息子の様にかわゆく、孫もかわゆく、病気を除けば楽しい人生です。

2007年1月27日 (土)

感動

感動の薄れ行かむを恐れしが影を慕いて歌えば涙

この頃感動が薄れたのかテレビでも皆が笑って居るのに、一つも面白く無く心から笑える事が無い。年の所為かと寂しく思っていた。何と無く昔の古賀政男の「幻の影を慕いて」を歌って居たら感動が込み上げて自然と涙が溢れた。色々の思いでにつながったのかも知れないが、未だ大丈夫と安心しました。笑え無いのは今の世の中暗い事ばかりなのだと思いました。それから確か若い人の様な吉本のお笑いには、以前の本当のお笑いに慣れた者には笑え無いのかも知れません。時代ですね。普段はアベマリアを聞いて心を和ませて居るのですが、偶には昔の恋歌も歌ってみるのもいいかも。

2007年1月26日 (金)

中心

娘ら来れば狭き吾が部屋集まりて連れ来し犬も何故か隣に

外に出られぬ私を思い良く娘夫婦が犬を連れて遊びに来て呉れる。すると2階の家族も来て狭い8畳の私の部屋に夫々場所を確保して集まり、コーヒーを飲みながら病気抜きの話に弾む。犬までもが私の隣に必ず主人公の様にいる。隣には広い居間が有るのに。主人は自室、話が合わないのかも。
実は過去に於て大病院で2度程動けぬ私を中心に秘密集会を開き、先生方の大きな話題になった事がある。
その一つが日赤で首の手術をして1ヶ月位の時。隣の日系の学生さんが退院するのでお祝いにと、6人で送別会を企てた。整形外科は骨折等ギブスこそしているが、皆元気なので年配の3人がお金を出し、若い人がスナック菓子や缶ジュース等昼間買いそろえ、9時消灯に成れば11時迄は看護婦さんは来ないので、大きな扉を閉めて賑やかな会をした。動けぬ私が中心で、皆車椅子で私を囲みそれは楽しかった。然し扉が閉まっている事を変に思った看護婦さん、扉を開けたと思ったらそのまま飛び出して行った。運悪く私の先生が当直の日で、その後すぐに凄い勢いで飛びこんでこられ、「あなた方何をやっているのですか?僕の当直に。」「☆さん貴女迄。」当然中心にいたので私が計画者と思われ「明日から痛いとか眠れぬ等と言わせんませんから」本当は年上のかた2人居たのにおとなしい方だったので何も言われませんでした。相当食べた後だったので、皆で謝り、残ったお菓子類を当直の先生の所に置いてきて私の当直先生に「絶対他の先生には内緒にしてください、男の約束ですからね」と指切りしました。然し翌朝整形先生全部の回診が有り、うつむいて居ましたが何か変な雰囲気。私のところで最高潮「はては?!」と思ったので先生に「先生、約束破って皆にしゃべったでしょう?」一斉に先生方大笑い。「此の病院でこんな出来事始めてですよ。扉閉めたのが間違ってたね」と、どうやらお咎め無し。後日「申し訳御座居ません」とあやまったら「驚いたけど怒って無いですよ。」と言われました。

2007年1月25日 (木)

春待ち人

日を追いて陽の落つ時の遠のけど吾が待つ春は何処迄来しか

気が付いたら日の暮れるのが遅く成った。雨戸を閉めわすれて寒さが入り込む感じで時計を見たら6時をとうに過ぎているのに未だ明るい。何か冬が遠のいて行くような感じで嬉しい。でも未だどっしりと冬将軍が踏みとどまって居るのだ。春と言う言葉に痛みが取れる様な魔力がある。遠くで微かに雷の音がする、春雷かなと夢を見る。春待ち人

2007年1月24日 (水)

存在

戦争で生き残りしを孫にする死なず良かった今の僕あり(て)

孫にお風呂に入れて貰いながら子供達には話さなかった戦争の体験を詳しく話した。
千葉に疎開しながら姉ヶ崎の駅から川崎迄(飛行機会社)汽車を乗り継ぎ5時59分の汽車で通って居た事。今でいえば中学生、途中機銃掃射、駅の爆破等常に有り、千葉駅空爆の時は、一緒の汽車の千葉中学の優秀な男子が亡くなり私は生き延び、一人で線路伝いにとりあえず浜松町駅の父の所まで辿り付いた。途中東京駅もぼうぼう燃え、新橋も燃えていて、火で顔が熱くて防空ずきんの中に埋めながら無心で歩いた事も話した。市川の鉄橋の下江戸川には死体が一杯流れていた。翌日姉ヶ崎の家に帰ったら母が幽霊を見たような驚きの顔。大勢亡くなったので、病院や駅等探し回ったそうで、諦めて居たそうです。女学校一年生ですよ。そんな中で育ったからこそ何でも頑張れるのです。
其の話を聞いていた孫がぽつんと「ばば生きて居て良かった。その時に死んだら今の僕は居なかったんだよね」と、そして命の尊さを知り、「僕頑張るからね」と言ってくれました。今になってあの時死んでいたら娘も孫もいなかったのだと自分でも思いました。戦争って生きる大切ささえ忘れる恐ろしい事なのです。勿論東京大空襲の時も東京にいました。亡くなったお友達もいます。原爆だけで無く尊い命を沢山おとしました。だから世界の平和を心から祈り続けております。

2007年1月23日 (火)

お袋の味

亡き母の味が懐かし受けつぎし吾も娘に教え行かむか

娘や孫が「ばばのつくった焼き豚(煮豚)が一番美味しい」と言う。特に変わった事無いけれど材料は安くても油の入り具合と味つけに一工夫隠し味が有る。明治生まれの母が色々試したのだと思う。然し私が叉一工夫加えお袋の味が子供や孫が美味しいと楽しみにして呉れる。此の味を食べさせるだけで無く今の内に、娘や興味の有る孫に秘密にしないで教えて行こうと思って居ます。他にも名前がないが澄ましの春雨を入れた身沢山の豚汁。よそで食べられ無い物が有る。 お袋の味といいながら、何でも買える時代、でも皆同じ味ではつまらない。何時かコンビニの味に変わるかも。寂しいですね。 此の病気はお陰様で味は確か、然し肝心の作る事が出来ず誰かに教えるしかない、来た時に教えて覚えてもらい受け継がせたい。

2007年1月22日 (月)

暖冬に誘われ咲きし赤き薔薇うつむきし侭寒の戻れば

今年になって暖かい日が続いた。其の暖かさに誘われて春に咲く赤い薔薇がさいた。スミレも一輪可憐に、此のまま暖冬がつづけばと、私自身の病気の為にも願っていた。然しまだ冬叉強い寒さが戻り折角ほころびた薔薇がうつむいて仕舞い、水をやってももう戻らない。可哀想に春を待たずに終わりそうだ。スミレも萎んでしまいました。
私も叉ベットに潜った一日に成りそうです。いくら部屋の温度を上げても駄目。お天気やだから。

2007年1月21日 (日)

蛙の孫も蛙

渡されし僕が作った歌だよと読めば真実笑いとばせぬ
 「ふとんから 寒くて出れぬ もう少し お願いだから 寝かせてくれよ」

2階に住んでる大学生の孫が何時もババが心配だからと私のベットの脇に布団を敷いて寝て呉れ、何かと面倒を見てくれて居る。只朝携帯に目覚ましをセットして有り「起きなかったら起して」と何時も頼まれるが一度では起きず何回も起す。私に出来る事はそれくらい。夜勉強が終ってから私をお風呂に入れて呉れ、湿布を貼ったり着せて呉れたり全て面倒を見てくれ2時頃寝るので起きられないのだ。つい起きないので私も文句言う。
今日も歌が出来ないとこぼしていたら「こんなの短歌?」と持って来た、それこそ孫の処女作。「載せるからね」と言ったら「いいよ」と笑っていたがまさかと見たらびっくりするでしょう。

2007年1月20日 (土)

酷いニュース

久々に器選びて紅茶入る寛ぎ破る子投げの二ユース

美味しい紅茶を戴き、久し振りに仕舞ってあった紅茶茶わんを出して、豊かな気分に浸りたいと飲み始めテレビを
つけたら、歩道橋の上から子供を投げ捨てたと言うニユース。寛ぎは何処かに飛んでしまった。性善説か性悪説か知らないが人間祝福され愛され成長しながらどうしてこんなにも残酷になれるのか。ごく一部の人間だがそれにしてもこの頃生命無視の犯罪があまりにも多く続き過ぎる。いま国会でも問題に取り組んでいるがしっかりと答えを出して欲しい。こんなにも一つの命の灯を消さないように一生懸命生きようと頑張り、生かそうと努力している人が多いのに。地球滅亡の囁かれる今、人間は多くの問題に真剣に対処しなければ成らない時期に来ている。心が痛みます。

2007年1月19日 (金)

煩悩

死を前に未だ煩悩の残りしか悟りし如く逝くは寂しき

余りにも長い闘病生活に治ると信じて時間が有り過ぎた。その間に色々娘も嫁がせたし、母親としてやれる事は一応全部やって責任は果たせたと自分に言い聞かせ、もうこれ以上苦しみながら生きる事は無いと自分の本当の病を知った時に思った。そして静かに痛みを受け入れ後は寿命と言う時にまかせてと考えて居た。然し未だ其の時は何時?と分からぬ日々を過ごす内に、満たされぬ物が心の中にくすぶり続けて居る気がしてきて何か悟れぬ寂しさを感じる。
何時迄病院でどんな治療を受けるかは別問題。 私の心の中の煩悩。

2007年1月18日 (木)

大病院

病持ち待ちし患者も疲れしが昼食とれぬ医師も辛きか

大きな病院は遠くからの患者も含めて多い、いくら予約制でも1時間2時間待ちは当たり前。しかも色々の科を回るとどうにも成らぬ疲れの苦しさに成る。「何時まで待たされるんだ、予約なのに」と大声でわめく患者さんを良く見かけるが、1時の予約に行っても「ただ今11時の予約の方です」と札がかかって居る。
やっと3時ごろ呼ばれるが先生の声も元気がない。「先生お昼召し上がったのですか?」と訪ねると「いつも昼食は抜きだよ」と‘「何時の間にか2食主義だよ」と、でも手を抜く事が無く日を置いて居るだけ丁寧に見て下さる。だから時間オーバーに成るのだ。「待たせてご免ね」って言われると申し訳なくなる。その後色々決まりの検査等で口も利けない位、でも先生はまともでない患者さん相手に一日中真剣に接して考えて下さりお疲れも多いと思います。何方も大変ですね。

2007年1月17日 (水)

19歳の処女作

身の回りの整理で学生時代の愛読書リルケの(若き詩人への手紙)が出てきて懐かしく開いたら、色変わりしたわら半紙が出てきた。見たら、もっと懐かしい私が始めて作った短歌?が書いてあったので書いてみます。
5月5日 盲腸で始めて入院の時。とあり

寝もやらずつきて看とりし母の背に済まなく詫びぬ今日は母の日
母が活けし枕辺の赤きカーネーションそっと手折りて吾が胸にさす
吾が腹を切りし白衣の若き医師日に幾度も見舞う気になる (慶応の素敵な医師)
来る筈の人の来ずして枕辺の花が優しく吾を慰む
今日も叉見舞う人無く灯の灯り一人夕餉の重湯をすする
病室の窓に寄りつつ涙ぐむ日の暮れ落ちし街を眺めて
別   草に寝て夜空の星に囁かむいとしき君に話すが如く

今此れを読み今の私と余り替わらなく、それだけ何の進歩もない事が分かり苦笑してます。若いだけ今より新鮮
天国のお母さん、此れを読んで下さい。あの時は有り難う。

2007年1月16日 (火)

スランプ

ビジョン無く気力もなくて感動も薄れゆきたりスランプなるか

昨日予定どうり4科回り、検査、検査とあちこち回り、月曜日の所為か凄く込んで待たされ、今度は新しい検査の為すぐ予約を受けた。最後に麻酔科で痛み止めの注射を4ヶ所、どの先生も心配して下さり先生同士お話合って下さったと伺い、この前心に誓った様に此方からは無理もいいませんでしたが、嬉しくて全てお任せして頑張ろうと思いました。朝出て家に帰ったのは7時頃真っ暗の寒い夜でした。ベットに横になったら動けないほどの疲れ。
そしたらあんなに頑張ろうと思ったのに、もう何もかも失った人間失格みたいに自信を失って仕舞いました。

2007年1月15日 (月)

耐える

耐える事あまりに多く籠りいて時には皿を砕きてみたし

体調の悪さもあるが食事制限、全て流動食、思うように動けず薬の効かぬ強い痛み、その上筋萎縮、そして今日先生の手紙を持ち新しい科といつもの3科回りに日赤に行く。先生方が度々では遠いし身体も不自由だからと同じ日に合わせて下さったのだが一日中なので凄く疲れる。新しい先生ではどんな検査の予定が組まれるかも分からないし、帰ってからも自分の事着替え等夕食の支度、と疲れた身体で全部やらねば成らぬ。全てじっと我慢我慢の毎日。もう駄目と自分から逃れられない。先の見えない生活、耐えきれなく思わず何かにあたりたくもなる。

2007年1月14日 (日)

歳とりて知る

帰る吾見送り呉れし寂しげな亡母(はは)を思いぬ歳とりし今

嫁がせた娘達が遊びに来て、食事をしたりがやがや娘達同士で話をしたりお茶を飲んだり、別にたいした用もなく時間が来れば夫々に「叉ね」と帰って行く。もう会えなくなる訳では無いが手を振りながら帰って行くのを見送りながら今度何時と思うと寂しい。
昔私も母を訪ねて、愚痴をこぼしたり、子供達の話、自分が子供の頃の話し等色々話をし、母にご馳走して貰い当たり前の様にしゃべるだけしゃべって(叉ね)と簡単に帰って来た。玄関で手を振る寂しげな顔を今に成って思い出す。
自分が今、歳を摂り、歳を摂る寂しさがやっと分かったので、「あの時お母さんはきっと寂しかったのだなぁ」と切ない気持ちになった。

2007年1月13日 (土)

明けやらぬ空を烏の鳴きゆけば体調悪く胸騒ぎあり

今の都会は明るく、夜遅く迄朝は早くから烏が鳴くのは珍しい事では無い。然し昨日は夜中3時頃にいつもより多い烏が何事があったみたいに、色々の鳴きかたでうるさく屋根すれすれに飛んで行った。今までに烏が集まって嫌な思い出が沢山有ったので、丁度体調も悪く悩んで居て嫌な胸騒ぎがした。眠剤をのんで寝たが案の定朝方お腹が痛く目が覚める。やっと点滴が終って一週間も経たないのに。すぐ医師に電話したら、もう訪問治療は無理だからと先生指定の病院に連絡してくださり行く。然し「こんなに抗生剤ばかり打つと耐性菌が強くなり熱が出たら薬が効かなく危ない」と、検査の結果大病院に行かなければと言われた。丁度日赤が私の全て管理しているので、そちらの先生にお手紙書いて下さり、「其の先生は其の科の有名な大家だから安心して見て貰いなさい」と、一応点滴をして下さいました。それが運悪く看護婦さんが、点滴がちゃんと入って居るのを確かめず離れて仕舞い、痛いのを我慢して居て終って来たら、さあ大変。漏れで腕が足の様に腫れてしまい、今度は温めて暫く帰れませんでした。今も未だ吸収されず太い侭。何かあの烏の鳴き声の悪い予感が全部当たりました。先生に「こんな事繰り返して居ると腎盂炎になりますよ」と注意されて帰りました。皆脊髄損傷の所為だそうです。免疫力も落ちて、私の努力は認めて下さいました。がんばりやとしての。でもさすがにこっそり泣きました・

2007年1月12日 (金)

寿命2

去年の冬終の寒さといとおしみ今生きおれば寒さ厳しき

昨年の冬は暖冬と言われながら厳しい寒さでした。でも「今年の冬、そして寒さは最後だ」と思ったら何か愛おしく感じ耐えられた。然し一年たち今年もまだ生きて居る。苦しくて駄目だと思いながらも、これが寿命なのだ。そう思ったら何故か今年の寒さが耐えられない程に厳しく感じられる。余り死を意識しない様になったが痛みが楽になった訳ではない。苦しさは増して居るが全て寿命と残された日々を大切に前向きに生きようと思います。

2007年1月11日 (木)

寿命1

日記書く如く綴りし吾が歌帳命の終わりと捨てて悔いおり

私の病気の行く末を告げられ覚悟していたが、一歩進んで二歩下がりの勢いでどんどん悪くなり昨年からもう底をついた形になり自分で死を決めて、飛ぶ鳥跡を濁さずの積もりで身の回りの整理をして捨ててしまった。有る程度は正解なのだが長年の歌帳や詞のたぐいを捨ててしまった事は悔やまれる。病気と寿命とは別だから頑張って居るのに、一度捨てた歌の世界、怠けたのか、センスがないのか、歌が出来ない、せめて歌の書き留めがあればと思うが何処かに灰になって埋められているのでしょう。思い付いたらすぐやるのが災いして。人間最後迄希望を捨てないで居なければとつくづく後悔しています。

2007年1月10日 (水)

女の性2

籠りたる身にも一つのおしゃれありマダムロシャスの香り纏いぬ

昔は自分は年を取らない物だと思っていた。有る年齢になり今度は、「私は年をとっても綺麗な素敵なおばあちゃんに成りたい。髪もセットして服装にもおしゃれして、出来るだけ外に出て、背筋はまっすぐに歩き、何か社会の為にも成り、大勢の友達と方々に旅行して人生を謳歌したい。」と思って居た。折角この世に生を受けたのだから。
決して贅沢な事は望んで居なかった。でも何処で180度の転換をして仕舞ったのか、何一つ叶えられ無いのが現実だ。美味しい物も駄目流動食、せめてビールの代わりにジンジャーエールを飲んで酔ったつもりに成って、寂しい。
でも昔から私の香りはマダムロシャスと決めて、香水だけはベットや身体に振りかけておしゃれしている。皆「良い匂いですね」と言われる。此れがせめての私のロマン、おしゃれです。 そして頭に一杯のアンテナを立てた事かな。

2007年1月 9日 (火)

女の性 1

整理した筈の小箱に白粉と口紅のあり女の性か

動ける内にと細かい使わない物は殆ど整理して捨ててしまった。鏡台の上に可愛い小箱が有り何が入って居るのかなと明けてみたら、コンパクト、口紅、頬紅等お化粧品が一通り入っていました。あの時(一年前位)矢張り捨てきれずに仕舞ってあったのだ。自分の歌集や詞等早まって捨てて仕舞って後悔しているのに、使う事の無いお化粧品は捨てられなかったのは矢張り女であったからだと思うと何か自分が愛おしい。
体調は余りよくは成らない。でも自分の事は手を抜かずに人を当てにせず頑張って居ます。ひやっとする事あるが。

2007年1月 8日 (月)

時間

年と言う時間刻まれ此の身体病気のおまけ持ちて死がある

生と死の狭間に生きるこの頃に成って時間を意識するように成った。長く生きた分年と言う時間を身体全体に刻み込まれ、その上病気と言うおまけがついて、いずれ訪れる死が先に有る。此の残された時間をどう生きたら人間の尊厳が保たれるのか。そして見守って呉れる人々に暖かく送り出して貰えるのかと。少しでもこの世で残せる事が有れば頑張って行く積もりです。
点滴一応今日で終わり。明日何か有れば叉と。両手点滴の漏れで紫色で汚い。終ってほっとする。

2007年1月 7日 (日)

古書

一つづつ買い集めたる古き本吾逝きたれば只の古本

学生の頃は家では本を読むしか無かったし叉好きだった。神田の古本街を探し歩くのが好きで手に入らない本を見つけると、無いお小遣いをはたいてお宝を手に入れた様に嬉しく夜更け迄読んでいた。今でも何回も読んでいる大正14年の漱石名作選集初版(定価貳圓)は、布の装丁で箱に納まり、いかにも時代を感じる重みが有る。叉昭和9年中央公論社発行の坪内逍遥訳のシエークスピヤ全集は、本屋さんに頼んで新品同様を(定価一冊七拾錢)当時男の人の月給より高い値段で父を拝み倒してやっと手に入れた。辞書も手に入らない専門書が沢山あったが、私以外の人は興味なく、家を立て替えした時すでに私が今の病気で侭成らず、辞書類は邪魔だと広辞苑、大漢字、六体など主人に捨てられてしまったものがかなりある。シエークスピヤ全集も主人が邪魔だと床下にいれて仕舞ったのでカビが生えてるかもと心配だが、おそらく私がいなくなれば只の古本、ゴミと捨てられると思うと悲しく成る。今は電子辞書、文庫本の方が簡単で重宝なので。でも私には思い出一杯のお宝なのです、生きて居るうちは。
今日も点滴2回お天気も悪く気の重い一日です。

2007年1月 6日 (土)

寒椿

冬枯れし庭にま赤き寒椿体調良きか活き活きと見ゆ

此処の所暮れから体調を崩しお正月も冴えない日々で元気な振りをして来たが、点滴が効いたのか少し元気に成った。冬枯れの庭にも関心がなくぼけっと眺めていたが、今日改めて見たら真っ赤な寒椿の花が咲いていて、何もない庭が活き活きと感じた。体調が悪いとあたりに関心がなくなりますね。花の美しささえ分からなかったのだから。
此れから厳しい冬の寒さが続きます。皆様もどうぞお気をつけて寒さに打ち勝って下さい。
病んで知る健康の有り難さほんの少しでも体調が良いと嬉しく感謝です。今日も未だ点滴2回、重荷に感じますがおかげさまで体調も良くなり、お正月返上で来てくださった先生に感謝しております。
歌かけなくてご免なさい。        

2007年1月 5日 (金)

工夫

少しずつ身体をずらし試し見る痛み薄れる座位は無きかと

何と言う事無くパソコンに向かう時間が長く成る。他に出来る事無いから。始めは痛みに負けて寝ている方が楽なので寝てばかり。でも長い一日、テレビも面白くない。そこで、人様の生き方考え方等を知りたいと思ってブログを始めてみました。それが暖かい皆様に触れて何時の間にかつまらない事を書きながらも、毎日やる事が出来て生き甲斐になりました。然し脊髄の病気特に腰の骨が手術後ずれてしまい、損傷も有るので同じ姿勢で長く座れません。でも座っていたいので、どんな座位が楽か色々試している。クッションは外国の良いというのは殆ど有りますが。
腰はやっかいですね。普通の人でも一番の要ですから。栄養摂れば摂っただけ皆体内脂肪に変り、スマート?が自慢だったのに今ではお腹ばかり大きくなってしまって。先生曰く、「しょうがないね、運動出来ないんだから。」 我慢して果物や果汁は避け、(黒酢は胃に一番いけないと言われたので)無糖の薄いコーヒーだけ。でも本当の味がわかるものはこのコーヒーだけで、後は流動食。何時か美味しいものをいろいろ食べられる日が来るのを待って頑張って居ます。
今日も点滴2回。皆脊髄損傷と薬の副作用。言葉の温もりは心の栄養に成っても太らないから良いですね。

2007年1月 4日 (木)

鳥羨まし

侭成らぬ身を庇いつつ見上ぐれば恣意に飛び交う鳥羨まし

もうお正月気分もなくなり今日から仕事始め。時間刻みで看護婦さんマッサージの先生、点滴も朝晩、私も気は焦る。動きたい、けれど動けない、不自由な身体を窓際に運び、晴れた空を見上げたら鳥が自由自在に飛び交って居る。好きに飛び行きたい所に行ける鳥がなんとも羨ましく思へた。健康の時には考えた事もない。
いくら逃れ様としても病気は何時も付いてくる。病気には悪いがあなたから離れて何か楽しい事無いか探し求める。そして転んでも、転んでも、起き上がり新しい事に挑戦したい。限られた時間だから。
現実 今日は点滴一回ではいります様に。

2007年1月 3日 (水)

箱根駅伝

思い入る箱根駅伝一位よりシード争い襷渡せぬ涙

伝統の箱根駅伝を観ながら何時もの事ながらハラハラ、ドキドキ。一位の順天堂大学おめでとう。走ったどの選手も素晴らしい、でも私が面白い(失礼)と思ったのは、シード争いの体力を出しきっての走り。でも負けは負け来年に向けて皆頑張って欲しい。そして心から応援したのは、最後の襷タッチの時後何秒が間に会わず襷を握り締め渡す相手が無く悔し涙を流して居たとき。本当にスポーツは、特に箱根駅伝はどんなドラマが生まれるか分からないのが定評だから皆を感動させるのだと思う。
今日も点滴、お正月の気分が吹っ飛んで仕舞う。でも幸せと思う。家で皆に会えるから。

2007年1月 2日 (火)

賀状

生存の証の如き年賀状表も裏も印刷のみなり

今年も年賀状が大分届いた。私達の年齢になるとパソコンはやらない人が殆どなのに、家族の誰かに刷ってもらったのか、殆どがパソコンでした。でもこんな私でも汚い字で一言は心を込めて書き添えて居る。
それなのに表も裏も印刷だけの方が多い。頂いても余り嬉しくも無く一年振りだからどうなさっていらっしゃるか近況が知りたいと思う。昔は一人一人手書きで相手の方を思い出しながら書いたものでした。勿論ぎっしり書いて下さるかたもいらっしゃる。年賀状を頂いた嬉しさに何回も読み返す。健康なのに印刷のみは矢張り寂しい。
今日も点滴2回、血管が入らなくて一回に5度位差す事も、先生に悪いので痛いとは言え無いが入り易い血管が欲しいと思う。未だ数日は続くので、久し振りに孫とゲームをしました、お正月だから。勝負は内緒。

2007年1月 1日 (月)

賀正

 新年おめでとうございます 本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます

良き年を希う賀状に目を通す側に孫達お年玉待つ


元旦を迎えご主人様はお雑煮始めおせちを召し上がって居ます。私の大好きな数の子をプチプチ音を立てながら。悲しい。私は何時もの流動食、ワイン飲みたいなー。病人にはお正月無かったのだ。此れから先生が点滴に来て下さる。申し訳無い。せめて年賀状にと目を通せば元気でお過ごしと書いてある。余り病気の事は人に言わないので、昔の元気な私と思って呉れている。一寸見たら傍らで孫二人座って「おめでとう御座居ます」と丁寧な挨拶。 目的はお年玉、ふだんから色々の名目でお小遣いは上げて居るが、お年玉は叉お互い格別な意味がある。今年も無事上げる事が出来感謝。
孫とプレステゲーム久し振りにやろうかな。昔は子供達と百人一首、羽根つき、等楽しいお正月だったが。 夜先生が点滴に見えると思うと余り気分が乗らない。ジンジャーエールでもビールの積もりで飲もうかな。

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